1人の女性がエンジニアになるまで 〜Kinokoの場合〜

どうも、お久しぶりです。なんと2年ぶりのようですね。

少し前、wirohaさんのnoteや、それに倣った「〜xxの場合〜」という記事がたくさん投稿されていました。 note.com

もちろん私も、そういう記事を目にしたり、実際に読んだりしました。
ただ、みなさんの経歴があまりに華々しく、私のことなんかは誰の参考にもならないだろうと思って、特に記事を書くこともなく(仕事が忙しいのもあって)放置していました。
あと、自分の経歴なんかはTwitterに断片的に投稿していて、それが特に大きな反応もなかったことで、余計に需要の無さを感じていました。

ところがこの記事を執筆している今日、Clubhouseで「ぜひキノコさんにも記事を書いてほしい」ということを言われて、それならばと久しぶりに筆を(キーボードを?)とったわけです。

これは、幼少期からエンジニアの親父の背中を見て育った女が、普通に結婚して子育てをして、それほど高くもない年収を得るようになった、そんなお話です。
無駄に長い上に、誰かに憧れられるような人生でもないですが、参考になる人が一人でもいらっしゃったら幸いです。

まず今の話をします。

2018年11月に開業届を出した、まだまだ駆け出しのフリーランスエンジニアです。
講師業をしたり、プログラミング教材作成をしたりして収入を得ています。
昨年の10月からは、初の受託開発に挑戦しています。(ちょっと難航していますが・・・w)
たくさん働く日もあれば、4時間くらいしか働かない日もあります。平均的には8時間〜10時間くらいかな。
現在の年収(売上)は、400万前後。昨今言われているようなキラキラフリーランスエンジニア像とは程遠いです。

プライベートの話でいうと、中1と小5の娘がいます。どちらも手のかからない子達です。
趣味はDIYと料理、あとは人と話すこと、時々ゲームと漫画に没頭します。

幼少期

1980年生まれ。父がITエンジニアです。私が10歳くらいのときにフリーランス(当時はそんな言葉はなく「独立」とか言ってた)になり、60を過ぎた今も現役です。
物心ついたときには既にコンピュータという存在があり、足し算や引き算は父がFORTRANで組んだゲームで学びました。
小さい頃から「もののしくみを知ること」が大好きで、おもちゃ屋さんに行っては、気になったおもちゃの外箱の仕様を読み耽っていました(買ってもらうことには興味がなかった)。
少し大きくなってからは、壊れた目覚まし時計の分解が大好きでした。
あと、3歳の頃から英語を習っていました。これはキーボードに抵抗がなかった一因かもしれません。

小学生

ゲームが大好きで、ずっとゲームばっかりやっていました。
女の子とはあまり気が合わず、男の子とゲームの話をしていました。
そのせいもあってか、「男性の中に紅一点」という環境が当たり前になっていました。これはその後の人生にも大きく影響していると思います。

はじめてのプログラミング

上記のような環境のせいで、いつからプログラミングを始めたかを覚えていません。
父のお下がりで「NEC-PC8801」や「NEC-PC9801」を触っていたのですが、小5のころにBASICで鶴亀算の解を出すプログラムを書いたのが、ちゃんとしたプログラムを組んだ記憶の一番古いものです。
多分それまでにも、ファミリーベーシックとかでちょっとしたゲームの写経はやっていたと思います。

中学〜高校

中学受験をして6年一貫の私学に入りました。
中高を通して校内での成績は良かったです。
中学のうちは男子とオタク話ばかりしていて、相変わらず女子と馴染めませんでした。
この頃にはすっかり女子が苦手になってしまい、実は今でも引きずっています。
男性と話すことに全く抵抗がないのに比べて、女性と話すのにはひどくMPを消費します。
それはともかくとして、当時(密かに)好きだった男子からTRPGに誘われてよく遊ぶようになり、ラノベロードス島とかスレイヤーズとか)を読み、どっぷりオタク生活を満喫していました。
高校になってからは一般のTRPGサークルに所属しました。
数学の教科書の後ろにあったBASICをやったりする以外にはプログラミングはほとんどせず、一太郎ラノベを書いたり、絵を描いたり、とにかくオタ活ばかりやっていました。
高校は特待生だったので成績を下げるわけにはいかず(毎年更新の審査があった)、オタ活以外の時間はほとんど勉強していました。
進路の話なんかでは、子供が好きで面倒見が良かったのもあり、保育士という選択肢も上がっていました。
とはいえ、やはりなんとなくエンジニアになるんだろうなぁという気がしていました。
(理系コースでしかも特待生だったので、それなりの大学に入ってほしいという先生がたの希望もありました。)

大学

期待されていた国立大学には入れず、滑り止めで有名な工学部メインの大学の情報工学科に入りました。
意外にも、当時、情報工の学生30人の中で、大学入学前にプログラミング経験のある人間はわずかしか居ませんでした。
私は小学校低学年のころからプログラミングをしていたし、大学でCを習った時には、鬼門と言われるポインタなんかも、全く違和感なく理解できました。
でも、数学が苦手だった私はすぐ挫折しました。大学の教授には「君は専門学校の方が花開いたかもしらんね」と言われました。
それからは、カテキョのバイト(それなりにいい大学なのでカテキョの口に困らなかった)をしたり、漫研や合唱団にのめり込んだり、ゲーセン通いでダメ男と付き合ったりして、結局大学に5年間通ったものの、取得単位は60くらいでした。
結局大学は中退しました。
まぁ、実は今になって情報工学の基礎を学び直すために放送大学に通っていたりするんですが・・・。 (←若いみんなは親がお金出してくれて、時間があるうちにちゃんと勉強するんやで)
プログラミングは、VBとかCとかを触ったり、趣味でぼちぼちと小さなプログラム(アプリってほどでもないもの)を書いたりしていました。あとTeXでカテキョで使う数学の教材を作ったりもしてました。
あと、女というだけでとにかくチヤホヤされたので(学部30人中女子2人)、オタサーの姫状態になっていました。
相変わらず女性が苦手だったので、そのほうが居心地が良かったという・・・。

フリーター時代

カテキョを続けつつ、ファミレスのキッチンのバイト、弁当屋のパートなどをしていました。
プログラミングなどする暇もなく、とにかく働きまくっていました。
この頃のストレス発散といえば、大学の合唱団に顔を出しては後輩にご飯を奢ることでしたね。
大学の合唱団とゆかりの一般合唱団にも所属したりして、合唱とともにあったフリーター時代でした。

初めての仕事

しばらくそんな生活をしていたのですが、年の離れた弟が母校に入学するというので、先生方に挨拶に行きました。
元担任の先生に「お前今何してるの?」と聞かれて、「ホカ弁でパートしてます」と言ったら、「アホかうちで働け」と言われ、5月から母校で働くことに。
なんと、正社員ではないとはいえ、就活を全くせずに仕事が決まってしまいました。中高の成績が良くてよかった・・・。

当時母校は、他校に先んじてICT推進プロジェクトみたいなのが走ってて、ICTコーディネータ助手として嘱託職員になりました。
プロジェクトといっても、実質私と唯一の上司(今も大尊敬している先生)の二人の、小さなものでした。
入社(入校?)してすぐは、LANケーブルを引っ張り回す仕事とか、ghost castでPCの定期メンテをしたりとか、どちらかというと物理レイヤーの仕事をしていました。
上司に色々なことを教わりながら、先生方のITサポートデスク的な仕事や、サーバメンテなんかもできるようになりました。

そんな折、上司が「キノコはプログラミングできるやろ。ちょっと作ってほしいものがあるねん」と、学内の情報共有システムの作成を任せてくださいました。
メインの仕事の合間に、好きに作っていいということで、Pearlやらphpやらを勉強し始め、当時ベータ版だったmixiとか、サイボウズの情報共有アプリなんかを参考に、グループウェアを制作しました。
これが初めての「仕事としてのプログラミング」(ただし本業はあくまでもICT助手なので、仕事とは言えないかもしれない)でした。
こいつが我ながらよくできたもので、先生がたにも気に入ってもらえて、情報学会?みたいなところで発表する機会をいただきました。
その発表を見ていたとある出版社からお声がけがあって、とあるシステムを作ることになり、これにJavaが向いてると思って、そこからJavaを勉強し始めました。この時にJavaを知り、Javaの良さにハマりました。当時1.4だったかな。
実はこのシステムは未完に終わりました。その学校で今の夫を見初めて、結婚、妊娠して退職することになったからです。
結局入社から3年くらい働いての、一人目の妊娠。ひどいつわりで休みがちになり、そのまま退職しました。(正社員ではないので産休などはなかった) 長い妊娠出産子育てブランクが始まります。

出産と子育て

私は、子供が小さいうちはできるだけ子育てに専念したいと思っていました。
実際、ワンオペ育児の中、たまにはコーディングをするものの、何かが作れるわけでもありませんでした。
時々、在職中に作ったグループウェア(離職後も5年くらい使われていたらしい)のリファクタリングをしようとしたりしたけど、ちょうどphpオブジェクト指向に切り替わったばかりで、ついていけず断念。
また、日曜大工や料理にもハマり、そちらに興味が持ってかれたのもあります。

再就職

実際にプログラミングを仕事にしはじめたのは、下の子が幼稚園の年長になった頃。実に9年ほどのブランク。
合唱団のつながりで、10人ほどのちいさなシステム開発会社に嘱託勤務という形でした。
子育てしながらのフルタイムは私には無理だったので、10時〜14時の時短勤務。しばらくしてリモート勤務に切り替えていきました。
ここでは、Javaでとあるオープンソースフレームワークにコミットするのが主業務でした。
勉強会に参加する機会を得て、人とのつながりを増やしていった時期でもあります。
ここで拾ってもらえなかったら、フルタイム勤務可能な人に競り負けて、どこにも雇ってもらえなかったところでした。
実際、いくつかの会社の面接を受けたけれども、全滅でした。
給料は安かったけど、本当にたくさん勉強させていただいて、今でもすごくすごく感謝しています。

その後コミュニティ活動などを通して、色んなところからお仕事の声がかかるようになり、この会社で働く傍ら、長年のカテキョ経験を活かして講師業や教材作成(業務委託)も始めました。
(そういえばこの会社との契約って今どうなってるんだっけ?嘱託って更新しなければやめたことになってるのかな?)

講師業

講師業はすごく肌に合っていて、毎日沢山の生徒さんを教える毎日は楽しいものでした。
収入も安定し、開業届を出して小さな個人塾(プログラミング教室)もはじめました。
傍らで、CoderDojo阿倍野を立ち上げたり、いろんなコミュニティ活動をしました。
女性が苦手なのでいわゆる「女性のためのコミュニティ」には参加していませんが、女性エンジニアが増えるといいなという気持ちは強いので、今も遠くから発展を見守っています。

ある時、夫が心の風邪に罹り、世帯収入が厳しくなったのをきっかけに、初めて常駐勤務に入りました。
私自身の収入(単価)が大幅にアップしたのはこの時。
1年ほど頑張ったけど、やっぱりひと所にいるのは合わないと思って、契約を終えました。これが去年の9月くらい。

アプリ開発とスタッフ

10月からは講師業に戻るかと思いきや、中高の知り合いからあるWebサービス開発を頼まれました。
そこで、かねてからアイデアを温めていた「エンジニアの卵をOJT的に使って育てる」ということをはじめました。
Webサービス開発自体は結構難航していて、色々考えさせられることが多いのですが、スタッフは今の所少しずつ育っている感じです。なんと、3月末が納期なので、実は今、絶賛追い込み中です。

エンジニアになった・・・のか?

プログラミング歴だけは長く、フリーランスエンジニアを名乗ってはいるものの、実務経験は浅く、会社や学校で働いていたときも正社員ではなかったため、本当に自分はエンジニアなのか?と自問し続ける毎日です。
年齢に比べて実績が少ないのは、子育て中は子育てに専念したいという思いがあって、キャリアを諦めざるをえなかったのが大きいです。
ただ、ITエンジニアなら(私はしなかったけど)、子育てと両立しようと思えばできるとも思っています。
楽に稼げるとかいうわけではないです。誰でも簡単になれるわけでもないです。あくまでも、時間と場所の制約が少ないだけで、努力は必要です。
それでも、ITエンジニアなら、いろんな可能性があると思います。
実際、エンジニアの方々は男性でも子育てに参加している率が高い気がします(あくまでも私の周りの観察体感)。 男女問わず、子育て、介護など、時間や勤務場所の自由がきかない人がたくさんいる中で、ITエンジニア業という選択が少しでも手助けになることを祈っています。

願わくば、「キャリアか、女の人生か」などという「どちらか」を選ばざるをえない女性が減りますように。

長々と拙い文章を綴りましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。